リンゴを用いた文字だと同じでも、実際は違う例

2023.09.15

言語化の向こう側

あれ。

そんなんあれやん。

わかるやん。

おーん。

独特な言語センスでお馴染みの阪神岡田監督。

イチロー、落合、岡田の3人を私は野球界の三大天才だと勝手に思ってるんですが、彼らに共通するのが何を言ってるのかがわからないのです。

イチローはあえて抽象的な表現を使う。

落合、岡田も具体的な表現がなさすぎて、そもそも何を言ってるかわからないレベル。

天才にしか見えてない世界。

言葉や数値にはできない世界があるんだと思ってます。

言葉と言葉の間。

数値と数値の間。

「言語化できる人は頭がいい」

みたいな風潮があるのかなと思うのですが、あくまで

「言葉にできることは言葉にしようよ」

「数値化できることは数値化しようよ」

ということで、それすらせずに当てずっぽうでやってる世界への警鐘的なものではなかろうか、と。

お仕事上、デザインを人にお教えする時に言葉や数値を使って教えるのですが、

「もう少し空けましょう」

「もう少し彩度を上げましょう」

みたいな部分は感覚の部分かな、と。

「もう少し」

なんてアバウトな数値表現ですから。

でも、それ以上言いようがない。

上の実例としてリンゴと青リンゴの画像を載せてみました。

どちらも文字列に変換したら「リンゴ」です。

でも、絵で判断すると全く違うものです。

言葉は人が情報を伝達したり、整理する時の効率を良くするために発明されたものなんだと思います。

でも、言葉に置き換えることでアバウトになってしまったりします。

これは色が違うリンゴだからわかりやすいですが、同じような赤いリンゴが100個あったとして、一つとして全く同じものはないでしょう。

やっぱりアバウトです。

デザイナーというお仕事。

全てを言葉や数値にできるほど簡単な職業じゃないから、プロフェッショナルであることに価値があるんじゃないでしょうか。

2023.08.31

我が子、教育論。

デザインの先生というお仕事をやってるので、デザインのことを学んで、教育のことも学んだりするわけです。

なので、デザイナーの割には教育については熱い方なんだと思います(お仕事上当然ですが)。

そんな私の子育て論を。

現在、息子くんは小学2年生です。

この先、何が待ち受けるかわかりません。

反抗期も向かえるでしょう。

今でもすでに私には反抗的ですが。

結果的に私の教育は大失敗になるかもしれませんが、その時はその時でしょう。

私も親として我が子を教育するのは初めてなので。

私自身が体験として持ち合わせているのは、私自身の成長記のみ。

「これは良かったんちゃうかな」

「ここがこうやったらどうなってたんやろう」

的な感じと、お仕事的に学んだ教育の知識を足して、導き出してます。

ヒトの自然な成長を邪魔しない

息子くん、最近ウソをよくつくなって思います。
都合の悪いことは誤魔化そうとしています。
どこで覚えたかわからないけど、汚い言葉で親に言い返してきます。

息子くんというリアルなヒトの成長記を楽しんでいる私は

「ウソつけるぐらい賢くなったんや〜」

とどっちかというと感心しています。

彼なりに自己を防衛するために「嘘をつく」「誤魔化して逆ギレる」という行動を取ってるんだと思うんですが、そんなことどこで習うのでしょう。

学校とか学童とかで周りの子を見て覚えるんかな、とか考えるんですがよくわかりません。

7歳ぐらいの知能があったら「嘘をつく」ことを身に付けるんだ、と。

そのうち「嘘をつく方が自分が損をする」ことを知れれば、嘘をつかなくなると思うので、あまり気にしてません。

躾として「嘘をついたら、周りから信じてもらえなくなるよ」って注意はしますが。

さておき、いろんなことが知らない間にできるようになっています。

奥さんにそう伝えると「あなたはそれだけ子どもの相手をしてないだけ」と非難されますが、「勝手に良くも悪くも成長する」を実感します。

我が家で意識してるのは「息子くんがやることを親が決めない」です。

10割は無理なんですが、無理に習い事させたりもしません。

なぜか自らやりたいと言い出した卓球とボイストレーニングはしてます。

なぜやりたいのか意味がわかりませんが、自ら外との接点をつくろうとする思いはできるだけ応援してあげたいです。

1学年7人の少人数な学校に行ってるので、卓球レッスンで会う他校の子どもたちとの触れ合いも彼に新たな世界を見せてくれるでしょう。

ボイトレを通じて、モノには理屈があること、モノの習得には時間がかかったり試行錯誤が必要なこと等学んでくれるんじゃないでしょうか。

私はやったことないから、わからないですが。

「液晶画面を見るのは1日30分」というルールを奥さんが設定していて、iPhone、iPad、Switchとハイテクなキッズライフをエンジョイしている我が子ですが、制限時間は30分です。

30分が終わったら「僕ヒマやー」を繰り返します。

「ヒマをどうつぶすか?」という課題を解決することで、彼の問題解決能力や想像力が高まるはず。

ゲームもスマホのアプリも便利すぎて、想像力を駆使しなくても楽しく遊べてしまいます。

家でクラスメイトとネットでゲーム対戦してたり、そういうのも大切なコミュニケーションだとは思うので、限られた時間でやるのは大賛成です。

「学校の勉強ぐらいはやろう」ぐらいの教育熱

つい最近夏休みが終わりましたが、家で奥さんと息子くんが夏休みの宿題をめぐって毎日怒鳴り合ってました。

私は「今わからなくても10歳になったらわかるから問題なし」と考えているので、この時期の勉強や成績はどうでもいいって考えでした。

しかし、「息子くんの宿題をチェックする」という任務を奥さんに与えられ、国語の問題やら算数の問題やらの答え合わせをしてたら、「めちゃくちゃ大切なこと学んでるやん!」とちょっとだけ考えが改まりました。

国語は「文字を読み書きする」「言葉を覚える」だけではなく、「他者の視点を持つ」というお仕事や社会を生きていく上で(そしてデザイナーにとっても)とても重要なことを学ぶものなんだと、息子くんの宿題から学びました。

長い文字列を見るだけで拒否反応を示してるっぽい息子くんに「イメージしながら読む方法」をレクチャーしたんですが、私の言うことは聞いてくれないので効果はないでしょうが。

算数もこの時期に四則演算、何度もやったから身に付いたんかなとか。

習い事をさせるとか、私立の中学受験とかは全く考えないですが、「夏休みの宿題ぐらいはした方がええんちゃうかな」に考え方が変わりました。

私自身、幼少期から周りに合わせないといけない社会がめんどくかったというイヤな子だったのですが、宿題という決められた課題をきちんとやるのも、彼の人生のトレーニングなのかなと思い、奥さんと息子くんの怒鳴り合いには基本ノータッチでした。

宿題をやりたくないなら、やりたくないなりの知恵を出せって思います。

自分のこと、周りのことを説明できるように

そんな完全放置な私ですが、たまの休みは息子くんと一緒にお風呂に入ります。

レアキャラなので珍しいのか、リクエストされます。

そこで無理やりなところもありますけど

「将来何になりたい?」

「今日は何してたの?」

やらやら、説明をさせようとします。

自分のことを自分で説明できないと、大人になってからチャンスに恵まれず、人生遠回りになってしまうのでは、と。

「今日何してたの?」から、彼は1日を振り返り、その中で一番面白かった話を選択し、何がどう面白かったか編集しないといけません。

その技術はまだまだですが、7歳児の成長途中の脳みそです。

今のうちから慣れさせておこうという魂胆です。

お仕事柄、たくさんの方にお会いさせていただいております。

自分のことを説明できない方。
状況説明できない方。
広告デザインという他人のことを説明できない方。

「できる方」の方がかなり少数だと体感しています。

物事の分析力がない、情報編集力がない、他人の面白いがわからない、自己開放できない等理由はいろいろだと思います。

年を重ね、仕事の中での責任が増えていくにつれて、説明を求められることが増えました。

そういうことだけは意識して、息子くんと接しています。

いつもフザけてて、要らんウソばっかりつく、うっとおしいオヤジって思ってるかもですが…。

怒るという表現に頼らない人に

さっきも書きましたが、彼はよく怒ります。

ママに注意された時。

ウソがバレた時。

喜怒哀楽は人が生きていくための感情のシステムだと思うんですが、「怒る」という方法論でしか、自己表現できない人間になってしまうのが怖く。

私の人生経験という浅はかなデータベース上、怒って徳することがない。

怒ってもだいたい何の解決にもならないんです。

「なぜ、自分は注意されているのか?」

「なぜ、ウソがバレたのか?」

「どうすれば、ママは怒らなくなるのか?」

まずは考えろという話です。

自分に義があるのなら、それはきちんと説明すればいいんです。

義がないから、怒って茶を濁してるだけです。

その姿がかっこ悪いという美学が彼の中にできた時に怒らなくなるかな、とかは思いますが。

とか言いながら、焼肉屋でいつまでもドリンクが来なくて店員さんにちょっときつめに当たってる私を「パパ、怒ったらダメだよ」と諭す息子くん。

自動車運転中「はよ行けや。何モタついとんねん。」とイラついてる私を「そんな言葉言ったらダメだよ」と諭す息子くん。

すでに私より人間できているのかもしれません…。

2023.08.19

ゼロイチ人間率。

違和感を感じる。

「これからはゼロからイチを作り出せる人に価値が出ます」

先生というお仕事を通じて、たぶん1,000人近い方々と接してきたと思うのですが、ゼロからイチを作り出せそうな人って1%ぐらい?

・ゼロイチが快楽な人…1%
・ゼロイチが苦痛な人…99%

な感じだと思うのです。(サカモトリサーチ社調べ)

じゃ、99%の方々の能力が低かったり、意識が低かったりするのか?

そうじゃなくって、高度な社会を形成するためには99%の人に求められるのは「周りを見ながら行動を決める」であって、「自分で考えて行動する」ではないからなのでは、と。

社会学の実験って、アリさんやらが使われたりするみたいですが、女王アリだけのアリの巣ってないですよね?

アリの巣事情に詳しくないから知らないですけど。

みんながみんな周りのことばっか見て行動してても埒が明かないから、1%が「俺はこうする」で方向を決める、と。

99%は「それに従う」と。

そうすることによってバランスがよくて、協調性の高い社会を築いてきたのでは、と。

地球上の人口が80億人とかなんですよね?(増えすぎてわからん)

イナゴの大量発生でもあるまいし、それだけ増殖できるってのは理由があるはず。

そんな感じでゼロイチを求める社会って、ほとんどの人にとって息苦しいだろうと。

AIが進化したところで、成熟した人間の高度な感覚システムは再現しきれないような気はします。

これからは1%の側の人が「これは人」「これはAI」と分けるだけで、大半を占めるゼロイチじゃない人の価値がなくなるってことはたぶんないし、ゼロイチじゃない人がいないと社会は形成されない。

ほとんどを占めるゼロイチの方に優しい社会、価値があることを認められる社会であって欲しいな、と思う土曜日の朝。

著者

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大阪本町制作所デザインスクール代表。講師。株式会社大阪本町制作所 代表取締役。初老のおっさん。